生まれ変わり 「上」…つづき

グレーのタイルに覆われた七階建てのオフィースビル。その四階に株式会社大国の事務所がある。ネオン街から車で五分そこそこの距離だというのに辺りはひっそりと静まりかえっていた。革靴の足音だけが響く。
ビルの正面入り口をぬけるとすぐ右手に管理人室がある。まだ明かりがついていた。小窓に白いカーテンがひかれているが、中からこちらの様子を覗いているような気配を感じ、とっさに左手に握っていた細い針金をスラックスのポケットの中へ押し込んだ。鍵穴を解除するための針金(ピッキング)だ。
小窓から六十代半ばの男が顔を半分ほど出して軽く頭を下げながら言った。
「なにか御用ですか?」
平日の夜十一時ごろまで勤務している管理人だった。いつもなら愛想笑いでもしながら応じるが、今夜は苦虫を潰したような表情で管理人にいった。
「晩くまでどうもご苦労様。ちょいと忘れ物があって取りに来たんだ」
「おっ、あんただったか。たしか大国さんの方でしたよね」
管理人は軽く咳払いをしたあと、戸惑い気味に話を続けた。
「し、しかしあんた、その顔どうしたんよ。そうとう腫れとりますけど何あったん?」
「いや参ったよ。急いで走ってきたら、すぐそこの電柱に顔面からぶつけちゃってさ。もう痛いのなんのって」とっさに思いついたくだらない嘘だった。
「ありゃりゃぁ、この辺は暗いからね。気いつけなあかんって」
「おっさんの言うとおりだ。目先が見えないってのは危ないもんだわ。気をつけなきゃな。そうそう、事務所に来たついでに、残ってる仕事も片付けていこうと思うんだが、おっさんは何時ごろまでいるんだい?」
「ああ、わしかい?わしは十一時半ごろまでならいるけどね」
「微妙だな。それまでに仕事が終わればいいが‥」
そう言ってエレベータのボタンを押すと背後から呼び止められた。
「ちょ、ちょっとあんた、そのまま事務所にいっても鍵がかかってますよ」
「あ、ああ、そうだった。鍵がかかってることなんてすっかり忘れていたよ。おっさん!申し訳ないがドアを開けてくれないかな」
「じゃあ、あんたにカギ渡しときますわ。仕事が済んだらちゃんと戸締りをして、ここの管理人ポストに入れといてえや。それと火の後始末だけはしっかりしといてくれんと困るよ」
「ええ、なるべくはやく終わらせますから‥」そう言って、管理人から鍵を受け取るとエレベーターに乗りこんだ。
四階に到着しエレベーターから降りると独特の緊張感に襲われた。事務所の前まで来て正人から貰った煙草を取り出し封を切るが、口に咥えただけで火は点さなかった。煙草の匂いを残すことはまずいと思ったからだ。
事務所のドアに鍵を差し込み静かにドアを開け中に入った。十坪ほどの室内に事務用デスクが七台、正面にはひとまわり大きい木製の机が置かれている。社長専用デスクだ。右手には六畳ほどの客室がひとつと、その奥にもうひとつ社長秘書の部屋があった。秘書は社長の実の娘である。ドア際のスイッチを押し明かりをつける。一番手前の事務員用デスクの椅子にゆっくりと座りこむと辺りを見渡した。壁には棒グラフで書かれたクラブ七店舗の各売上が張られている。
(ふん、雇われ店長どもめ、このグラフを見ながら売上を競ってやがる。こんなもんで騒いでるなんて保険屋のババァとなんらかわらねえな)
デスクの上には売上帳簿と出納帳がある。白いユリの花も飾られていた。どこの事務所にでもある平凡な光景だった。
左腕に巻かれているロンジンの文字盤を見た。

十時十五分
(さて、そろそろ始めるか)
机の引き出しは三段ある。鍵はかけられていない。書類を取り出し一つ一つ点検したが目ぼしい書類は何も見当たらなかった。
二十分がたった。他のデスクも調べたが、これといった書類はない。
事務所の窓ガラスを開け外の風景を眺め溜息をついた。電話ボックスの中で見張りをする正人が見える。まるで自分が見張られている気にもなった。奴らはどこで俺を見ていたのだろう。上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をめくると小さく肩をまわした。何となく肩の力が抜けた気がした。もうすこし落ち着かなくては‥。気持ちの切り替えはできた。
社長の机の引き出しを開けようと足を踏み出した。‥が、すぐに立ち止まった。
(そういえば、あの戸棚から‥)
以前、事務員があそこの戸棚から借用書類を出していたのを思い出したからだ。急ぎ足で戸棚の前に立ち下段の引き戸に手を掛けた。鍵がかけられている。だがそれも予測の範囲内だ。俺は胸ポケットから針金(ピッキング)を取り出し鍵穴に合わせゆっくりと回した。こんなものは簡単だ。事務製品のロックはすぐに外れた。戸棚の中には、給料明細帳と書かれた台帳が1冊、そして目的にしていた前借(借金用)台帳と厚さにして三センチほどの契約書と、借用書かつづられた束が二冊あった。予想は正しかった。
(人数にして100名分はかるくあるな。真佐子の借用書もきっとこの中に混ざっているはずだ。確認は作業しながらでいいだろう)
俺は書類の束を手に取ると、急いでコピー機の電源を入れ機械が温まるのを待った。その間、床下に腰をおろし評判がいいホステスやこれから伸びそうな女など、目ぼしいホステスの書類を抜き取った。中には典子の借用書もあった。真佐子の契約書と借用書が目にとまったのは、すでに何枚かコピーをはじめてしばらくたってからだった。
(やはり、思ったとおりだ。これなら何とかなる‥)
契約書を眺めながら微笑した。ほかのホステスたちの契約書そのものの内容も、さほど複雑なものでない。名前と住所、契約期間(何年)あとは金額が書き込まれた単純なものだった。
(ふっ。真佐子どころの騒ぎじゃ終われねえな。内田よ、じっくり時間をかけておまえを落ち目にしてやるから待ってろ)
抜き取った書類はすべてコピーし元通り引き出しに仕舞い込むと、鍵穴にピッキングを差し込んでみた。カチリと回ってロックされた。

十一時半
窓際に立ち正人がいる電話ボックスに目をやった。正人と目が合う。両手を伸ばし「後15分だけ待ってくれ」と指で合図をおくると、つまらなそうな表情を浮かべながらも正人は右手の親指と人差し指をつけOKサインを見せた。(本当に感謝するよ。もし、おまえがいなければ俺はこんなに冷静な感覚でいられなかったよ)そう心の中で礼を言った。その時だった。

突然、ドアをノックする音がした。不意を衝かれたように背筋を伸ばして椅子に座り直した。
(誰だ‥)


緊張が走った。自分の顔の表情がこわばっていくのがわかる。とっさに上着をはおり、コピーした書類の束を丸め背後に隠しこむ。デスク上に置いてある電話機を手前に引き寄せ受話器を持ち上げると耳に当てた。どこに電話するわけでもなく、ただあせりを隠すかのように無意識に出た行動だった。身がキュッと引き締まる感覚に襲われていた。息苦しい。窒息しそうな気分だ。
(正人は何をしている。見張っていたはずだ。うっかりよそ見でもしていたというのか?)
ドアはゆっくりと開いた。姿より先にかすれぎみの男の声が聞こえた。
「あ、あの、これで私は帰るけど戸締りのほうしっかりと頼むよ。それとシップ薬があったんで持ってきたんやけど、よかったら使ってくださいな。けっこう腫もひどいようやし早めに冷やしといたほうがええよ」
管理人だった。生唾を呑んだ。俺は受話器をやんわり戻すと両手のひらを頬にこすり合わせながら立ち上がり、ドアのほうに足を向けた。
「なんだ、おっさんか。こんな時間に誰かと思ったぜ。俺もあと二、三十分で終わりそうだ。そのシップ薬は遠慮なく使わせてもらうよ」
こわばった表情を隠すように意識的に笑顔をつくった。だが笑顔とは複雑なものだ。純粋に笑うのとは違い悟られぬために浮かべる笑顔は頬が引きつってしまう。俺は管理人からシップ薬を受け取るとすぐさまデスクへと戻った。
管理人はそのまま帰るかと思ったが言葉を付け加えた。
「なあ、あんた。人間ちゅうもんはなあ、痛みを知って覚えてくもんなんや。あんた人様に対して悪さでもしたんやないやろなあ。自分で気がついとらんでも神様はちゃんと天から見て下さっとるんや。悪さしたり人を傷つけたりしたらそれなりのバチがあたるようになっとんのやよ」
馬鹿らしい。俺は軽い舌打ちをした。
「おっさん、シップ薬はありがたいが、宗教的な勧誘文句には興味がないね。だいたい罪のない人間なんていねぇだろうよ」冗談交じりに釘をさすと、ふうん‥‥、と管理人がつぶやいた。俺は苛立ちをおぼえ、ちいさく咳払いした。
「いやいや、すまんなぁ、なんか仕事の邪魔をしてしまったようや。やはり若者は元気があっていい。年寄りはこれでおいとまするとしようか。それじゃお先に‥」
そう言いのこしドアは静かに閉められた。遠ざかる管理人の足音だけが、かすかに聞こえた。   


筋肉のこわばりがほどけてきたのか、それとも気後れしているのか‥
小刻みに震えている指先を眺めながら、ほんのしばらく自分と会話した。
いったいなんだってんだこれは。何にびくついてるんだ。上司たち大人によって屈辱の味を知らされたせいで弱者にでも成り下がったというのか。そうではない。弱者とは自分が生きていくすべを見失った奴のことだ。俺が弱者になるわけがないだろ。俺にはちゃんとした自己意識と目的がある。では管理人が言ったように人を傷つけようとする悪意があるから後ろめたいというのか。そんな道徳じみた意識なんてのは、つねに個人の考え方でしかない。宗教や思想などをかたくなに信じ信奉することが道徳とも思いたくない。正しいとか正しくないとかなんて結果生じるものだ。戦争も政治も同じことだ。勝てば正しいという事実に変わる。

子供の頃、母に進められ宗教団体の少年部に信仰したことがあった。毎週、土曜日になると自転車に乗り、そのつど決められた会館に足を運んでいた。母から言われたからだけではない。好意を抱くクラスメートの女子が女子部にいたからだ。何か言葉を掛けたりしたわけではない。けっして可愛いと言える顔立ちの少女でもなかった。転校してきたばかりの俺に、一番最初に親切に校内を案内してくれた、それだけの少女であった。いつの間にかあこがれの女子になっていた。
彼女のその親切な行動は、たんに学級副会長という役割を果たしたにすぎないのだろうが、友達も兄弟も居ない少年の俺は、しだいに寂しさから逃れられた気がしていた。
温もりを求めていただけなのかもしれない。いや、初恋だったのだろう。だが、それもすぐに壊れ果てた。勇気を出して書いた一枚のレターが、クラス中に回し読みされていた。

転校を繰り返すたびに思うことがあった。転校生というレッテルは、クラスの中で新しい見世物が現れたように興味をいだかれ人気者になる。その後の行事は決まっていじめという結末が待っていた。何が正しいとか、それが嫌がられることだったとかの話ではない。新しいものに興味を持ち飽きが来ると何らかの刺激を求められ標的にされる。そういう流れになっていくだけだった。意義ができ自覚が生まれる。そのあとに目覚めるのが良心という正義であり、それは本人が決める問題であって、他人が決めることではない。誰かに認められたいなんて思ってもいないさ。そんなことなど、子供の頃からわきまえていたはずだ。こそこそと恐れながら身を隠して生きていると、何ともいえない嫌な味がする。その味こそが悪というものではないか。恐怖は勝ちさえすれば消えうせる。それが正義だと信じ、自分に言い聞かせていた。

ふうっ‥‥と、ちいさく吐息をついた。右側の肋骨あたりに鈍い痛みが走る。上司や黒服たちによる有形無形の圧迫に、我ながらよく耐えたと思う。しかし、時間が経過するにつれ心身の痛みは強まってきたようだ。のんびりしている場合ではない。とりあえず、ほしい代物は手にした。正人も退屈だろうし、そろそろ退散しようか。ディスクの椅子から足をかばうようにゆっくりと立ち上がるとコピー機の電源を落とし事務所をあとにした…。
                 


――雨の降る音が聞こえる。
蒸し暑かった昨日とは打って変わり今朝は少しばかり肌寒い。窓際に置かれた時計の針は午後一時をさしている。昼過ぎか。小さくつぶやいた。
自然に眠りから覚めるのはいつも正午をまわっている。布団をはがし裸のままベッドからやんわりと起き上がると全身を眺めた。すり傷だらけの皮膚と腫れあがった打撲のあとが赤黒く褐色している肉体が視界に入った。現実がぼんやりと戻ってくる。手のひらを前頭部にあて軽く押してみると激痛が走った。頭部の傷口はふさがっているようだが変わりに石ころほどのコブができている。
傷の痛みは何とか耐えられるが躰はひどい疲労感に襲われていた。まるで年老いてしまった男の肉体に成り下がったような気分だった。

雨の降る音は激しさを増した。
外の風景は見ていないが、ボロアパートの階段に張られたトタン屋根がそう知らせてくれる。部屋の窓に掛けられたカーテンに触れることはない。日差しが苦手だった。たとえ天候が悪く太陽が隠れているにしても昼間という感覚の中では同じ意味のことだった。蛍光灯の明かりをつけ椅子に掛けてあったグレーのガウンを羽織る。薄手のシルクものだ。肌触りがいい。
キッチンに向かい冷蔵庫のドアに手を伸ばす。最初の一杯は冷えたブラックコーヒーと決めていた。それからヤカンに水を張り火をかけたまま洗面所で顔を洗う。湯が沸くとインスタントコーヒーをティースプーン二杯半カップに入れ湯を注ぐ。少し濃い目だがその割合の香りが好きだった。気まぐれな男にもいくつかのパターンはあるものだ。どこに泊まってもこの習わしはすませていた。
バスルームでもあれば、かるくシャワーでも浴びたい気分だが、時折帰るこの部屋にそんなものはない。だからと言って、ひとけの多い銭湯に出向き傷だらけの肉体を披露する勇気もない。さらし者になるだけだ。
コーヒーを半分ほどすすると、もう一度ベッドに横たわった。
部屋の隅にオレンジ色の包装紙に包まれた箱がある。早智子が置いていったものだろう。ひとり善がりかもしれないが多分、誕生日のプレゼントだと思った。だがオレが帰宅した時にはすでに彼女の姿はなかった。何も聞いていないものを勝手にあける気にはならない。そう思いながら事務所から勝手に拝借してきた書類を横目に苦笑いしていた。
床に空になったウイスキーの瓶が転がっている。テーブルの上には今ほど飲んでいたコーヒーカップとロックグラス、それと事務所から持ち帰った書類が広げられたままになっている。しばらくその光景を眺めながら昨夜のことを思い出していた。

持ち帰ってきたものといえば、コピーした借用書と契約書、それとホステスたちの給料明細帳だけだ。そんなものに何の興味も示さなかったオレが、価値を見出したということは知恵が付いたということなのだろう。この書類があれば女達がいくらで雇われているのかがよく分かる。メモをする暇などなかった。給料明細など事務員が頻繁に目を通すものでもない。二、三日中に返せばよいと思い借りてきたものだ。欲を言えば社長秘書のデスクの中も拝見したかったのだが時間がなかった。次の機会にしようとあきらめた。
事務所を出たのが午前零時にさしかかるころだった。外に出ると想像していたとおり、正人の不機嫌そうな表情と対面したが表情以外は何もなかった。欲しいものは手に入った。落ちついた場所で旨い酒が飲みたい。そう言い車に乗り込むと正人は駅前とは反対方向の南に車を走らせた。

いたち川沿いに赤ちょうちんがぶら下がっている古めかしい居酒屋の前に正人は車を止めた。にぎやかな通りなら決して目立つこともない。そんなたたずまいの小さな店だ。正人が言った。「オレは黙って二時間も見張りをしたんだ。こんなとこでは気がおさまらないが今日はここで勘弁してやるよ。あらためて後日、おごってもらいますから」オレは、そういうと思っていたよ、と答えた。

店内に入ると不機嫌そうな七十過ぎの老婆が調理していた。調理といっても手持ち網の上で干物を焼いている簡単な作業だった。「いらっしゃい」と声も出さない。目だけで何を飲むのかと訴えているような愛想ないムードだった。
六席ほどのカウンターにねずみ色の作業服を着た客がひとりだけいた。競輪新聞をひろげながらビールを飲んでいる五十代そこそこの男だ。彼もまた愛想のいい表情には見えなかった。
黒いボードには厚揚げと干物、それにお新香だけが書かれている。多少あっけにとられたが、気分的には適していた場所だった。そうでも思わないと飲む気にもになれない雰囲気の店だ。冷や酒とお新香を頼んだ。ほとんど日本酒は呑まない主義だったが横にいる作業着の男と同じものを注文する気分ではなかった。
先にコップ酒がカウンターの上に置かれそれを口にした。硬い表情が和らいだ瞬間だった。次に白菜のお新香が出された。箸をつける前に正人が話を聞かせてくれといった。オレはあらためて正人に礼をいったあと、真佐子との成り行きと契約書のこと、その借金の連帯保証人にさせられてしまうこと、上司たちの罠にハマり暴行されたことをポツリポツリと話した。事務所から持ち出した書類を何に使うのかまでは口には出さなかったが、これからの考えを簡単に説明すると正人はかすかな笑いを浮かべ言った。
「男ってのは女を守るもんだって言うが、その女の影にひざまずかせられてしまうのも、また男なんですかね。オレも悩まされ傷ついているひとりの男ですし何となくだが、今のあんたの気持ちがわかる気がする」
どうやら薫のことを思い出しているようだった。
しばらくすると正人の長い大きな溜息が聞こえた。そのあと、もう一杯どうですか、と言ってきたが、それを断りゆっくりと腰を上げ席を立った。
「まあ、オレとおまえは少しばかり違いがありそうだが、そういうことで今回は金が絡んでるってことだ。今日のところはこれくらいでいいかい?少し疲れた、詳しい話は明日の夕方にでもゆっくり話そう」そう言うと、正人はグラスを軽く持ち上げ黙ってうなずいてくれた。

店を出て正人の車で送ってもらいアパートに帰ってきた。腕時計の針は午前二時を少しまわっていた。
すきっ腹にいれた酒が効いたのか正人は少しばかりろれつが回っていなかった。ちゃんと無事に帰れたのだろうか。
正人に疲れていると言ったのは嘘ではない。だが、部屋に帰ると眠れなかった。
カラーボックスからジム・ビームのボトルを取り出しロックグラスに注いだ。アルコールを流し込みながらキッチンに視線がいった。溜まっていた食器がタオルの上にきちんと並べられていた。早智子が洗っていってくれたのだろう。
冷蔵庫を開けグラスに氷を入れるとウイスキーツーフィンガーほど注いだ。やはり日本酒よりバーボンが好ましいようだ。グラスとボトルを持ちながらキッチンから部屋に移った。床に座るとグラスの中のウイスキーをすすりながら真佐子の借用書と契約書のコピーを眺め考えていた。
うまくことが進めば真佐子の借金からは、逃れることが出来そうだ。真佐子には多少悪い思いもさせることになるだろうが仕方がない。事務所にあった書類すべてを抹消することで法律上、真佐子は借金を支払わなくても済むことになっただろう。だが、大騒ぎになることは目に見えている。それは返ってこちらが面倒だ。そんなことをするつもりなら指紋など残さない。それに管理人に見られた時点で失敗に終わっていた。とりあえず荒っぽい方法は後からでいい。どこまでうまく行くのかは分からないにせよ、当面はあせらず真佐子の契約が切れる二ヶ月間を待つだけだ。
ウイスキーボトルが空になると睡魔が襲ってきた。時間は覚えていない。服を脱ぎ捨てベッドに寝そべったところまでは記憶している。やがて痛みも忘れ眠りの中に引きずり込まれていた。

痛みから逃れられたのはアルコールを流しこみ眠りについた数時間だけのことだった。結局、目が覚めると傷の痛みもまた目覚めてくるのだ。それが生きているという証拠なのかもしれない。オレは昨夜の記憶を頭の中で整理し終えると、ベッドから起き上がり白いワイシャツに手を伸ばした。