ryus2006-07-12

井の頭公園や上野公園内をブラリと歩いていると、ふと自己表現の天才たちと出会うことがある。
自然な空の真下で、『大道芸人』の彼らは自分たちの体を使い自分たちの世界を表現し自由な空間を見出していた。閉塞的な世界の中で束縛された日常を生きるモノたちとは違い、それはとても新鮮な輝きを放っているようにいつも思える。


「もっと高く見たいですよねぇ」と、大きな声を出しながらディアボロ(中国のコマ)を空中高く投げ上げ拍手喝采を浴び、喜びという手ごたえをちゃんと感じとっているヤツらだ。たとえ収入は不安定だとしても、自分が決めた道を着実に歩いている自信が、好きなことを続ける原動力になっているのだろうと教えられた日でもあった。会社の仕事は結果が大きい反面、何をやっているのかが見えなくなる時があるものだが、どうやら彼らの場合はそんな迷いなど無い顔つきである。

大道芸人は、芸を見て喜んだ人の気持ちで生活の糧を得ている。芝居や映画などは決められた金を払って見るものだが、見るつもりのなかった大道芸はそうではない。“定価”が決められてないぶん、いくら払えばいいのかがわからない。大道芸を見る側(自分)が逆に個々の価値観を問われる瞬間でもある。人間とは定価のないものに対する価値には、なかなか判断と決断ができないものだ。

たまたま出会った人たちと笑い合い、人を差別せず、管理せず、だれでも分かち合える原点がそこにあった気がする。「自分は何をしたいのか」「自分は何ができるのか」、自分のやりたいことを自然体で続けながら気持ちのバランスを保っている彼らの姿に定価をつけることを恐れた自分の足は、あとずさりしていたようだ。